あの頃の未来に私たちはいるのか

モヤモヤしてたことをぽつりぽつりとTwitterでつぶやいていたんだけどちょっとこれはまとまった文章で書いたほうのがいいのかなと思って久々にはてなで文章を書くことにした。その方のがより整理できるのかなと思ったので。6年近くあけてはてな再びだよ。

 

私はいわゆるロスジェネ世代である。上の世代と比べて不遇さを感じて社会へ出て行った人たちは多い。そしてその後の世代との差でも不遇も感じている。そんな私たちであるがもう立派な大人と呼ばれる年代である。いつまでも子供のままではいられない。それぞれいる場所は違えど大人としての振る舞いを求められる年代である。

そう考えた時、何でもかんでも面白おかしくネタとして消費していくスタイルや冷笑している様は果たして大人としてふさわしい振る舞いなのだろうか。真偽のわからない他人のゴシップネタをさも真実であるかのように受け止めて愉快に笑い飛ばしていくのは果たして大人がやることなのだろうか。真剣に考える人たちに対して冷笑するのはかっこいい大人の姿なのだろうか。私たちはそういう大人になりたかったのだろうか。

何でもかんでもネタにするのは私は間違ってたと思う。私たちがネタにしてきたことの中には自分の傷ついたことだったり悔しかったことだったり怒りだったりも含まれてきた。そういう時、ネタ化することによって昇華できることもあるのは確かであるが本当はその時の気持ちをそのまま大事にすべきだったんだと思う。笑い飛ばして「こんなの大したことないよ」ってすべきではなかった。

他人をコンテンツ化して消費すべきでもなかった。他人もまた自分と同じく人間なのだから。ネタにするにしてもしていいことといけないことがある。その線引きを大人として自覚すべきであった。私たちはもういい年した大人なのだから。子供ではないのだ。子供たちが見て恥ずかしくない背中を見せるべき年代なのだ。

同じように笑いあって同じ景色を見てきたはずの人たちを遠くに感じる寂しさを嚙み締めている。あの頃思い描いていた未来はどこへ行ったのか。ちゃんと近づけているのか。正直わからない。

もしかしなくても世間は思っている以上に自分にかかわりのないことに興味関心を抱かないものかもしれない。それをよく知っていたはずの人たちから突き付けられるのはきつい。自分と直接かかわりのあることは積極的に調べるし嘆くがそうではないことはスルー。スルースキルは大切だがそれって大事なものが零れ落ちていくことにもつながらないかな。だってある人にとって大切な問題でも他人にとってはそうではないからと知らんぷりを続けるならばそんな社会ってどうよって思うもん。でも自己責任論が蔓延る社会ではそれが当たり前になっていくのかもしれない。

面白おかしくできちゃう話には飛びつくが「明日は我が身よ」みたいな話は簡単にスルーされちゃう。いまいちピンとこないし面白くも何にもないもんね。あるかないかわかんない辛気臭くて笑い飛ばせない話より瞬間風速的に面白おかしくできちゃうことのが大事とかちょっと笑えない。なぜなら私たちはもう社会を担う大人の1人だから。大人に庇護されてる子供ではないのだから。そんな風に面白おかしく茶化して終わりにしていいわけがないのだ。

私たちは生まれてくる場所を選べない。努力でどうにかなること努力でどうにもならいこと選べること選べないことが無数にある。だからそこに自己責任論を持ってくるのは非常に危ういと思う。社会は何のために存在するのか。

 

あーなんか悲しいなあ。色んな事ぐるぐる考えてみたけどやっぱりそこに行きつく。私悲しいんだよね。物理的な距離が心理的な距離を生んでしまったのかもしれないがそれにしてもこの分断がきついし悲しい。私たちはわかりあうために生まれてきたのに。わかりあえないかもしれないがわかりあえないことをわかりあうくらいの夢は持っていたい。