殺人鬼フジコの衝動

殺人鬼フジコの衝動

殺人鬼フジコの衝動

嫌われ松子の一生 (上) (幻冬舎文庫)

嫌われ松子の一生 (上) (幻冬舎文庫)

嫌われ松子の一生 (下) (幻冬舎文庫)

嫌われ松子の一生 (下) (幻冬舎文庫)

I'm sorry,mama.

I'm sorry,mama.

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 上 (文春文庫)

柔らかな頬 下 (文春文庫)

柔らかな頬 下 (文春文庫)

女の転落記であることから『嫌われ松子の一生』を連想し、不幸な生い立ちであるが故にオニになった女であることから『I’m sorry,mama.』を連想し、母娘の断ち切りがたい業の深さから『柔らかな頬』を連想する本でした。物語は藤子が小学5年生のところからスタートします。藤子は母親と父親に虐待されて育った子供で、学校での居場所もなく辛い毎日を送っていたけれど、ある日両親と妹が殺された一家皆殺し事件の生き残りとなり叔母の家に引き取られます。人生の転機とばかりに転校先でうまくやっていく藤子。だけれども、この藤子という人はことごとく外していくんですね、選択肢を。普通だったらこっちはいかないだろうっていうほうへとばかり向かっていく藤子は徐々にオニになっていき、人生の破滅を迎えるわけです。
作中で繰り返し藤子は強く思うのです、母親のようにはならないと。自分を虐待して平気でいたあの母親みたいな人間にならずに自分は幸せになるのだと。あんな生活を自分は絶対送らないのだと。しかし、藤子は気がつけば母親の人生をなぞっていくばかり。ここに母娘の業の深さというのが見てとれます。人は育ったようにしか生きられない。娘は母親の人生をなぞるものだ。悲しいかな、それも真実のうちの一つだと思います。
娘が赤ちゃん時代を終え、大きくなってきて徐々に人格が育っていくのを見るにつれてそう感じるようになりました。元々、長女は赤ちゃん時代は私ではなく旦那にそっくりだったのに、今や私に似てきています。それは顔の造作が変わったからということよりも、性格が私に似てきたからのような気がしてなりません。しゃべり方やちょっとしたところなんかが自分のコピーみたいで見ててちょっと怖い。いや、娘は娘で私とは全然違う人間だし、見ていてこういうものの見方は私にはなかったなあと感心することもあります。娘を自分の人形みたいにする気はさらさらないし、ちゃんと自分の足で歩ける人間になって欲しいと思ってます。
だけど、母と娘の間にある業っていうのは思っている以上に深いのではと最近思うようになりました。これが母と息子だったらもうちょっと距離はとれるのかもしれない。でも娘との距離は近すぎるが故に危険。これから先、縛らずにうまくやっていくためにはきっと想像以上に困難があるのではないのだろうかと感じてます。特に、私と長女は第一子で長女である点が似ているから、気をつけなきゃなあ。次女に対してはもうちょっと距離を持って見れるんだけど。