反省会は誰のもの?

朝ドラは以前はそこまでひどいこともなかったものの、2015年放送のまれから悪名高い反省会タグが登場してそこから加速度的に治安が悪くなっている。できた当初は住みわけのためといいわけしていたがあっという間にそれは崩れ去る。あそこで行われていることは感想・批判といいわけした誹謗中傷である。たちの悪い、タイトルをもじったタグを作り揶揄をする。ここで書くのも憚られるようなひどいものだ。

嫌なら見なければいい。朝ドラ視聴することは義務ではないし感想を書くのもまた義務ではないのだ。そんなに気にくわないもののためにわざわざ時間を割き続けるのは不健全である。

同じような人たちが集い、今や自家中毒状態に陥っている。自浄作用はなさそうに感じる。

2022年、反省会タグに動きが出る。反省会タグと言えば朝ドラだったとこに他のドラマでも反省会タグが使われたのである。反省会タグの輸出である。そのドラマはクロサギだ。クロサギはちむどんどん出演していた黒島結菜も出演している。ちむどんどんの反省会タグで槍玉に上がっていた彼女がここでもまたターゲットにされる。どこまでも追いかけて完膚なきまでに叩きのめさないと気が済まないのか。

そして2023年、更に反省会タグが輸出され大河ドラマ初回で反省会タグが誕生してしまったのである。初回見ただけで?反省を促すわけ?誰が?誰に対して反省を要求してるの?

そう、反省会タグの肝はタグを使ってる人たちが反省をしようという趣旨のものではなく、作っているあなた達こそ反省してくださいというものなのである。すごい発想である。すごく地獄みが深いなあと思うし業が深いよね。

とりあえず草の根運動として反省会タグへはちょこちょこ折に触れてあれはないわと言い続けることはしていこうと思ってる。野放しにしとくわけにはいかない。だってあそこで行われてるのはとてもひどいことなのだから。知らん顔はしたくない。

ジョン王

御園座ジョン王の観劇に行ってきました。シェイクスピア作品見るのは初めてで長セリフが多い上にそもそもセリフ量も多く、難解で嚙み砕くのは時間を要しそうだけど今の自分の感想をまとめておきたくてメモ書きとして残しておきます。

コロナ禍で中止を余儀なくされ、2年半の時を経てようやく上演することができたジョン王。その間に世界情勢は大きく変わり、それによって演出プランも変更されたそうです。戦争を描いた戯曲において今尚終わりが見えない中では前と同じにはできなかったのでしょうね。それはわかってるけど、以前の演出プランだったらどんな舞台になっていたのかなとはやっぱり考えてしまいます。でも世界は元には戻らない、故に元々の演出プランのものを見ることは絶対にないのです。その不可逆性が辛い。

始まりと終わり、一幕のラストの演出には驚かされました。こういうのってありなんだって。特に終わり方には驚きました。でもこれは、このご時世あってのものなんでしょうね。銃口を向けられるのは武器を持った人間だけじゃない、武器も持たぬ私たちにも構わず銃口は向けられるのだ。無関係じゃないし他人事ではない、他人事になんてしちゃいけない。そういうことなんだなあと私は解釈しました。

ミュージカルではないのに歌が使われてるのは好みが別れるだろうなあと感じました。私は嫌いじゃないけどね。小栗旬の歌が聞けると思ってなかったのでお得に感じてしまった私は歌がダメって言えないもの。あそこで芝居が部ちぎれになっちゃうと思う人がいてもおかしくはないので本当に好みの問題ですね。

私は元々の上演予定の時はチケットを持っていなかった人で鎌倉殿を経た小栗旬の芝居が見たいと思ってチケットを取った人です。殺陣があったり鎧着たり生首持ってたりとちょっと義時思い出しちゃったよね。生首は首桶にしまってーとか思ったり。生の小栗旬は華が半端ないし当たり前にかっこよかったですわ。そして声がいいですね。テレビでも舞台でも映える俳優さんだなあと思います。

ジョン王は御園座から吉田鋼太郎が演じてるんだけど、吉田鋼太郎が演じてるからかすごく自由な人かつ魔王感ある感じがしました。後半は愚かで弱き王へと変わってくんだけど人間の浅くて愚かなところを表現されてたなあと感じました。

体調不良による降板があり御園座公演では急遽山本尚寛さんがルイ皇太子とヘンリー王子両方を演じられてたんだけど、よくこの短い間に仕上げてきたなと思いました。めっちゃ大変だっただろうに。白石隼人さんの皇太子が見れなかったのは残念だけど、山本さんも素晴らしかったと思います。役者さんってすごいな…。

以下ネタバレをしてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

冒頭、赤いフードを被った青年が通路から歩いてきて舞台へと上がり芝居が始まります。ええ、小栗旬が私の数メートル先を歩いて行きました。びっくりしたわ。青年は舞台上でスマホで写真を撮ったりなど至って現代っ子なのです。その青年が12世紀のシェイクスピアの世界へと迷い込み、彼は私生児フィリップとして生きるのです。そして物語は閉じ、カーテンコールが始まるのですがフィリップだけは微動だにせずそのままたたずんでいる。彼以外が去ったところで銃を持った兵士が現れ、銃口をフィリップへと向ける。彼は武器を置き、鎧を脱ぎ捨て冒頭と同じ赤いパーカー姿になり、フードを被って登場した時と同じように通路を通って帰っていった。その間銃口はずっと向けられたままである。やがて銃口は客席に向けられる。

そう、この物語は現代の普通の青年がジョン王の世界に迷い込み、やがて現代へと帰っていくという構造になっているのです。その意味するところはと言えば、歴史は繰り返すであり過去のものではないであり、現代と過去は地続きであり、無関係ではないということ。

途中、人形や肉塊が脈絡なく何度となく落ちてくるんだけど、それもまた戦争による犠牲者を表してるわけで全般的に反戦色を押し出した舞台になっていました。一幕ラストで吊り下げられた人形たちが出てくるのもまた、同じ意味合いだろうし。戦争によって子供を奪われた母親の悲しみをコンスタンスに託してるわけで。

私が不勉強だったせいでもあるんだけど、思ってた以上にメッセージ性を打ち出した演出になってたなあと思います。パンフ読むとストレートにその話もしてるしね。一人一人ができることは限られてるけれど、ちゃんと考え続けることはやめたらダメなんだなあと感じる。せめて、それぐらいは続けなきゃだよね。

超高齢化社会を生きる

母方の祖父は私が中学生の時に食道がんで亡くなっている。70才だった。祖母は祖父亡き後も生き続け、91才で亡くなってるので随分早かったように感じてしまう。

先日のことである。「おじいちゃん早かったよね。もっと生きれたのに」と言った私に対して母は「長く生きたら生きたで介護で大変だったかもしれない」と返したのだ。母は40代で父を亡くしたわけだが父親の年齢を越えた今、長生きすることのリスクについて想いを馳せている。

とても意外に感じたが母には母なりの思いもあるのだろう。

祖父が異変に気づいたのは夏。しかし病院嫌いの祖父はずっと我慢をしたまま冬まで放置していた。我慢が利かず意を決して受診した時にはもう、余命宣告される程だった。「胃潰瘍の手術」ということで手術したものの*1、根治できるものではなかった。しかし祖父は治ったと思い、退院後に張り切って冷蔵庫や洗濯機等の大型家電の買い替えを行い、3月には三女一家が住む長野へと祖母と旅行に行く。これが人生最後の旅になるとは知らずに。

その後、容態は悪化し起き上がることも叶わなくなり祖母と母とおば*2の3人体制での介護が始まる。おばは3人の子持ちなのだが小学生の子供2人を長野に残し、当時2才だった末っ子だけを連れ、泊まり込みで介護にあたったのだ。従弟は祖父から呼ばれるとその口元に氷を持っていったりとそれは甲斐甲斐しく祖父の世話をしていた。食べられるものが少しずつ減っていき、うどんが喉を通らなくなりそうめんすらも飲み込むことができなくなり、その生活は僅か2ヶ月もしないうちに終わりを向かえた。祖父が亡くなったのだ。私と弟は職員室に呼び出され、連絡を受けたのを覚えている。

まだ2才の子供の面倒を見ながらとはいえ、大人3人で介護をしていたにも関わらず大変であった。この生活が最初から終わりが見えていたものだから耐えられたとは後に振り返った時に折に触れ彼女たちは言う。終わりの見えない介護ではなく、最初から終わりが見えていたからこそ、献身的に介護することができたというのだ。自宅で看取ると決め、最後まで頑張れたのは看取りまでの時間が残りわずかだと最初から知っていたからである。だから腹が括れたのだ。

その後祖母は一人暮らしをすることになる。血圧が高く心臓が悪かった祖母は度々入院していたのだがある時、家で倒れたところを民生委員の方に発見されて救急搬送をされることになった。ここで困った事態になる。80歳を優に超えた祖母はもう一人暮らしが困難であった。3姉妹の誰かが引き取るというのも現実的ではなかった。そこで施設入所の道を探ることになる。キーパーソンは母なのでいくつかピックアップした施設に見学に行くことにした。中には堅牢な作りでまるで監獄のようだと母が感じるような施設もあったという。決めたとこはペンギンと過ごすことができる老健だった。1階でペンギンがつがいで飼育されているのだ。ここなら自分が将来入所してもいいと母が思えた施設だった。大変よくしていただいて入院で施設を離れた際には「施設に帰りたい」と病院で困らせるほどであった。

晩年は認知症も進み、同じ話を繰り返してた頃はまだよかったが看護師に暴言を吐き、手が出ることもあったという。あの穏やかで優しい祖母が?と驚いたが年を重ねるというのはそういうことなんだろうなと思う。自力で車椅子移乗することも叶わないほどの老人とは思えないほどの力で看護師を振り払っていたことに驚きを隠せない。

祖母は病院で静かに亡くなった。しかしそこに至るまで母は幾度となく呼び出されてきたし決断を迫られてきた。祖父の時と違い、身の回りのお世話をする所謂直接的な介護はしていない。しかしだからといってその分楽なのかといえば一概には言えない。ファーストコールになる人はいつ呼び出されるかわからず心をすり減らす。

介護は育児と違い終わりが見えない。赤子は日々できることが増えていき、手が離れていくが介護は逆だ。できることが少しずつ減っていく。超高齢化社会では誰もが当事者になるのだ。他人事ではない。私もあなたも介護に関わることからは免れない。その道はいつか行く道なのだ。

*1:余談だけど弟はヘルニアの手術のため、祖父と時期を合わせて同じ病院に入院していた。母としてもまとめてくれた方が楽だったのだろう。点滴ぶら下げて歩くのが何だが特別感があったらしくあっちこっち歩き回っていた。

*2:母は3姉妹の次女だが祖父母宅に最も近かったのは母だった。車で30分圏内に住んでいたのでね。長女は県内だが隣県近くに住んでおり、三女は長野在住。故にこの後、母がキーパーソンとして呼び出される日々が始まるのであった

不滅のワイドショー

かつて少女だった頃、ワイドショーや週刊誌などは下世話なおばさんたちのためのものだと思っていた。話題が芸能人のスキャンダルや皇室などで少女だった私には関係ないものだと思っていたのだ。芸能人の話題に関しては無縁というわけにはいかなかったが少なくとも皇室については何故おばさんたちがあそこまで皇室によくも悪くもこだわり続けるのかが私にはわからなかった。

時がたち、私も少女たちからおばさんと言われる年齢になった。40代は立派なおばさんだ。そのおばさんになった私たちだがかつては皇室にさほど興味を示していなかったはずなのに気がつけばおばさん仕草で下世話に皇室を話題にしている友達に引いてしまった。あんなに遠いと思ってたワイドショーや週刊誌的な価値観が具現化されていたという辛み。ヤフコメの具現化ほど辛いことはない。

真偽が定かでない話を元にそれがさも既成事実であるかのようにして下世話に進む会話に耐えられなかった。これはかつて眉を潜めていたおばさん仕草である。私たちは赤の他人の家のことをどれ程よく知っているというのだろうか。税金で暮らしてるんだから口出ししていい権利があると何故勘違いできるのだろうか。私たち庶民の生活だって多かれ少なかれ税金は投入されているというのに。ああ、だから誰もが他人の生き方に口出ししても許されるということか。そんなことなんて絶対にないのに。

「私がもし友達だったら」云々なんて大きなお世話である。何故なら私たちは彼女の友達ではないのだから。赤の他人なのだ。

かつては遠い存在だったワイドショーや週刊誌的な価値観を装備していく様は辛い。そしてそれはあんなに嫌だなと感じているそれらが決してなくなることがないことも示している。世代が替わっても尚、その価値観が継承されてるのだから。なくなることを望む人たちは私が思ってるよりずっと少ないのかもしれない。

なんだかとても寂しいなあと思うし悲しいなあとも思うのだ。私たち、同じものを見ていたはずなのにね。

ちむどんどん

本日無事に最終回を迎えたわけだけど、ちょっとあまりにも外野の場外乱闘がひどかったなあというのが最後まで気になってたまりませんでした。かなり早い段階で反省会タグができて、そこでなら何言ってもいいみたいな空気になってどんどん先鋭化していく様はちょっとあまりにもひどいなあと。私自身はちむどんどんに対して可もなく不可もなくというか、いいとこもあればちょっとどうなってるわけよみたいなツッコミしかないとこもあってそこら辺は大きく好みがわかれるだろうなあと思ってます。にーにー周りでやたらと裏社会がちらつくあたりも好みはわかれそうだしね。そりゃしゃーないわみたいなね。

しかしだからといって度を越えた誹謗中傷が許されることはないと思います。なんかさー声が大きい人が「叩いてもよし!」の号令かけたら何言ってもいいと思ってない?そんなわけないじゃん。

でもさー何が嫌って数年後にはちむどんどんを叩き棒にして他の朝ドラを腐す人たちが出てくるだろうってこと。事実、過去に反省会タグで盛り上がった朝ドラのことをを「○○を再評価する時がくるなんて」「××が最低の朝ドラだと思ってたけどまさかそれを更新するなんて」云々とtweetしてる人がいて「いやいやいやあなたどれだけ口汚く罵ってきたと思ってるのよ」とあきれたものでした。もう叩ければ何でもいいんじゃん…。

すごくすごく気になってるのが悪口言うために視聴する人たちが一定数いること。「Aさんと一緒になら苦痛なドラマも視聴できる」「見た後に一緒にダメ出しするために視聴してる」みたいな人って本当にいるんだなあって。その時間不毛じゃないですか?好きなことのために使ったほうのがよくない?そのほうのがずっとずっと楽しくない?視聴するのが苦行ならやめたほうのが精神的にもよくない?って思うんだけど、この手の人たちは悪口で連帯することが楽しくってたまらないからやめないんだろうなあ。なんかそれってすっごく嫌な感じだなって私は思ってしまう。連帯するなら好きなことでつながる方のがずっとずっと楽しいよ。

そんな感じでまあタグが荒れに荒れてたので途中から感想書くのもどうしたものかなと思ってたら、反省会タグに人に「こっち側の人間」みたいに解釈されて絡まれたことがあってそれ以来感想が書きにくくなりました。軽いツッコミのつもりで書いても反省会タグのテンションで絡まれると困るもん…。

AKは荒れやすいとはいえちょっと異様なテンションだったなあと思います。誹謗中傷と批評は違うよ。願わくばこういう暴走はこれで最後にして欲しい。今までも色々あったけどやっぱりおかしいもん。

本筋からは離れた話になったけど、エンタメは楽しく摂取したいなあって改めて思いました。エンタメはパワーだよ。負のパワーに変換はしたくはないな。

 

カムカムエヴリバディ

3世代100年を描いた物語が幕を閉じた。役者は素晴らしかったし見所のシーンは見応えがあり、多いに楽しんだのと同時に物語が進むにつれ、気になる面も増えてきたのも事実である。

見終わったからこそ思うのだが、物語の中心はるいであり、るいを軸に考えられたのは間違いない。それ故に3代目であるひなたは割を食ってしまったのが残念である。ヒロインの娘役ならこの扱いでも私は納得するがひなたはヒロインなのである。ひなた編と銘打つならひなたの人生を描いて欲しかった。飽きっぽくて長続きしなかった子が大人になってから自力で英語を学び、やがて世界へと旅立つんだなんてそんなワクワクした話、駆け足じゃなくもっとしっかり見たいに決まってるじゃないですか。

カムカムは企画段階でどのような予定で実際具現化するにあたってどのように変化していったのかが気になるところでもある。当初はラジオ英会話を巡る母娘3世代100年の物語であったはずがるいを中心にあんことジャズの物語へと変貌を遂げている。解析度が高いところと低いところが出てくるのはあるあるだしいいのだがテーマが期待してたところから微妙にずれていったのはどうしてなのだろうか。ドラマはチームで作るものである。優れた脚本家一人で作るものではない。それ故にチームとしてどう方向性が変わっていったのか等は気にはなる。

予定してた構成と設定をきっちり守るタイプの物語であったカムカム。しかし、回収は物語を推進するためのものである、回収のために物語があるのではない。回収は手段であり目的ではないのだ。回収そのものが目的に見えてしまったのが残念である。

安子編は時代的なこともあり、家父長制による抑圧に苦しめられていた。きっと後々への布石だろうと思っていたが女に厳しく男に甘いのは最後まで変わらなかった。家父長制による抑圧から時代を経て解放される物語ではなかった。結局、安子とるいを引き離すための装置のひとつとしてしか家父長制が描かれることはなかった。千吉も勇も算太も作中で咎められることはなくそれらについてハッキリと謝ることもしなかった。反対に雪衣は必要以上に懺悔をしていた。私は彼女もまた、家父長制の犠牲者の一人だと思うので何故このような仕打ちなのかと疑問である。

ぐちゃぐちゃ書いてはきたけど、楽しんではいたんですよ。楽しくなかったら最後まで見ないもん。ふかっちゃんは素晴らしい役者だ。じっくり見れてよかった。

カムカムはTLでも意見が割れててそれが面白くもあった。自分で作るTLだからそんな大きく割れることはよくあるわけじゃない。しかしカムカムは違った。それがとても興味深かった。安子編ラストについては私は憔悴しきってたとこで駄目押しで心が折れちゃったんだなと同情的に見てたがそうではない意見もあった。逆に私は算太は最後まで語らず懺悔もしなかったどころか、ジョーの音楽復帰へのきっかけとなるラストダンスのシーンまで用意されてたことにないわーと思ったが算太は川に投げ込む程ではないという意見もあった。本当にバラバラだったのよね。それが何だかすごいなーって思うし面白いのだ。検索して反対意見を探しにいってではなくというとこがね。何だかんだで楽しませてはもらえました。

あの頃の未来に私たちはいるのか

モヤモヤしてたことをぽつりぽつりとTwitterでつぶやいていたんだけどちょっとこれはまとまった文章で書いたほうのがいいのかなと思って久々にはてなで文章を書くことにした。その方のがより整理できるのかなと思ったので。6年近くあけてはてな再びだよ。

 

私はいわゆるロスジェネ世代である。上の世代と比べて不遇さを感じて社会へ出て行った人たちは多い。そしてその後の世代との差でも不遇も感じている。そんな私たちであるがもう立派な大人と呼ばれる年代である。いつまでも子供のままではいられない。それぞれいる場所は違えど大人としての振る舞いを求められる年代である。

そう考えた時、何でもかんでも面白おかしくネタとして消費していくスタイルや冷笑している様は果たして大人としてふさわしい振る舞いなのだろうか。真偽のわからない他人のゴシップネタをさも真実であるかのように受け止めて愉快に笑い飛ばしていくのは果たして大人がやることなのだろうか。真剣に考える人たちに対して冷笑するのはかっこいい大人の姿なのだろうか。私たちはそういう大人になりたかったのだろうか。

何でもかんでもネタにするのは私は間違ってたと思う。私たちがネタにしてきたことの中には自分の傷ついたことだったり悔しかったことだったり怒りだったりも含まれてきた。そういう時、ネタ化することによって昇華できることもあるのは確かであるが本当はその時の気持ちをそのまま大事にすべきだったんだと思う。笑い飛ばして「こんなの大したことないよ」ってすべきではなかった。

他人をコンテンツ化して消費すべきでもなかった。他人もまた自分と同じく人間なのだから。ネタにするにしてもしていいことといけないことがある。その線引きを大人として自覚すべきであった。私たちはもういい年した大人なのだから。子供ではないのだ。子供たちが見て恥ずかしくない背中を見せるべき年代なのだ。

同じように笑いあって同じ景色を見てきたはずの人たちを遠くに感じる寂しさを嚙み締めている。あの頃思い描いていた未来はどこへ行ったのか。ちゃんと近づけているのか。正直わからない。

もしかしなくても世間は思っている以上に自分にかかわりのないことに興味関心を抱かないものかもしれない。それをよく知っていたはずの人たちから突き付けられるのはきつい。自分と直接かかわりのあることは積極的に調べるし嘆くがそうではないことはスルー。スルースキルは大切だがそれって大事なものが零れ落ちていくことにもつながらないかな。だってある人にとって大切な問題でも他人にとってはそうではないからと知らんぷりを続けるならばそんな社会ってどうよって思うもん。でも自己責任論が蔓延る社会ではそれが当たり前になっていくのかもしれない。

面白おかしくできちゃう話には飛びつくが「明日は我が身よ」みたいな話は簡単にスルーされちゃう。いまいちピンとこないし面白くも何にもないもんね。あるかないかわかんない辛気臭くて笑い飛ばせない話より瞬間風速的に面白おかしくできちゃうことのが大事とかちょっと笑えない。なぜなら私たちはもう社会を担う大人の1人だから。大人に庇護されてる子供ではないのだから。そんな風に面白おかしく茶化して終わりにしていいわけがないのだ。

私たちは生まれてくる場所を選べない。努力でどうにかなること努力でどうにもならいこと選べること選べないことが無数にある。だからそこに自己責任論を持ってくるのは非常に危ういと思う。社会は何のために存在するのか。

 

あーなんか悲しいなあ。色んな事ぐるぐる考えてみたけどやっぱりそこに行きつく。私悲しいんだよね。物理的な距離が心理的な距離を生んでしまったのかもしれないがそれにしてもこの分断がきついし悲しい。私たちはわかりあうために生まれてきたのに。わかりあえないかもしれないがわかりあえないことをわかりあうくらいの夢は持っていたい。