どうする家康トークショーin安城

幸運なことにどうする家康トークショーin安城当選したので行って参りました。開場時間に到着したらまあ皆さん大勢並んでいらして。小学生~お年を召された方まで幅広い年齢層の方がいて大河ドラマの視聴者層の広さを感じました。

座席は全席指定で幸運なことに前方のお席を用意していただいておりました。一桁の列だったよー普通に肉眼で松ケンが拝めるお席でしたわ。ありがたい。

まずは安城市長の挨拶から始まったが視聴率がどうたらこうたらみたいな余計な一言いうてたので私の中ではその挨拶は聞こえてなくてよ。ファンミなわけじゃん、そういうとこで余計な水差す一言言わんでもいいのにね。

第一部は磯PとNHK名古屋のアナウンサーによる名場面ランキングの発表。トークショー申込時にアンケートがありその結果の発表になります。1位5ポイント2位3ポイント3位1ポイントで集計で29話までが対象となっています。

 

1位 18話 夏目博嗣が家康の身代わりになるシーン

2位 25話 瀬名との別れのシーン

3位 28話 信長のラストシーン

4位 27話 安土城の家康と信長が対峙するシーン

5位 9話 正信が家康を叱責するシーン

6位 29話 伊賀越えで正信と再会するシーン

7位 7話 忠真と忠勝の別れ

8位 2話 元康の岡崎入り宣言

9位 2話 大樹寺での元康が自害しようとするシーン

10位 5話 正信と半蔵のシーン

 

磯Pはなるほどねえみたいな感じでランキング発表を聞いてました。ここが視聴者のツボになったのかあみたいな。ランキング発表しながらそれぞれのシーンについてのコメント発表もされてました。

第二部は松ケンも加わってのトークショー。色々と興味深い話が聞けて面白かったです。

築山殿事件で折り返しになった本作、尺が足りないのではと不安になったりもしたけど、実は古沢さんは全48話分のあらすじを書いてからスタートし磯Pに聞き、ちょっとほっとしました。ちゃんと全体の配分考えた上でこういう構成にしたのがわかったのは収穫でしたね。他でこの話が出たとは聞いてないから初出になるのかな?

2話での大樹寺での殿と忠勝のシーンは実は台本では忠勝は泣いてなくて演じてるうちに自然とああなったそうで山田裕貴くんは「なんで先に泣くの?」と松潤に言われたそうです。

本能寺の変については早い段階から磯Pは岡田くんに相談していて、家康にとっての信長とは何かを考えながらああいう形になったということだそうで。磯P曰く、家康は直接本能寺の変に関わってはいないからなしにしてもいいかもしれないがやるならどういう形にするのがいいのかという問いは持っていたとのこと。安土城での家康と信長のシーンは松潤と岡田くんで組み立てながらできあがったものだそうです。

18話の夏目広次のシーンは甲本さんが呼吸困難になるほど演技に力が入っていたそうで。役者魂ですね。夏目には何故2つの名前があるのかについてはずっと古沢さんが考証の先生に聞いていてそれがこういう形で紐解かれたことに磯Pは感嘆してました。台本あがってくるまで知らなかったそうです。

松ケンは基本オンエアは見ない人で見ると付け足したくなっちゃうから見ないそうです。9話の殿とのシーンでは松潤がかなり感情は言った芝居をしていて縄を切る時に松ケンの手まで切っていたので痛みをこらえながら芝居をしていたそうです。ちなみにこのことは松潤にはいってないとのこと。また、家康との対峙のシーンは撮影前日寝れなかったそうでそういうのは初めてだったと言ってました。それぐらい、気合の入った大事なシーンだったんだなあと。正信にとって当時のこの状況は許せないものだったので一向一揆側についたわけで、正信にとっての理想はそこにあり、それが正信のベースだったのではという話にはなるほどなあと思いました。武士とは違う視点だったのが正信なのではと。また、磯Pは家康にその時その時のテーマを語る人物が正信なのではとも言っていました。9話の殿と正信のシーンなんかはまさにそういうシーンですよね。

磯Pが松ケンにオファーしたのは平清盛でかなり大変だったので次はリラックスして自由な役を演じてもらいたいと思ってだそうで、松ケンは磯Pのオファーだったので受けたそうです。松ケンはリハと本番で芝居を変えてくるから俳優にとっては脅威なのだとか。松潤も気が抜けないといってるそうです。俳優たちは「なんかさっきの芝居がまずかったから変えたのかな」とか思ったりもするが松ケンとしてはライブ感や緊張感で芝居が変わるそう。

大河ドラマの主演は本当に本当に大変だそうで、20代で主演を経験した松ケンはそれはもういっぱいいっぱいになってしまったそう。それを現場に持ち込んでしまうくらいにはいっぱいいっぱいだったという。たくさん悩みもしたそうです。特に実年齢を超えて意向を演じるようになってからはいっぱいいっぱいで現場でそれを隠すこともできなかったってよっぽどだよなあと思うのですよ。だってあの松ケンがですよ?当時は若かったとはいえ、あの松ケンがですよ?大河ってめちゃくちゃ大変なんだなあ。今回は大河主演経験者がキャストに3人いるのは松潤にとっては心強いことなのかもなあと松ケンの話を聞いて感じました。その大変さを思いやれる人が周りにいるって大事だよね。

松ケンいわく、松潤もきっといっぱいいっぱいのはずなのに現場でそれを見せずにいるそうです。台本を読み込み、理解を深めようと努力し、磯Pにも積極的に相談しに行っているとのこと。また、座長としてスタッフ含めてみんなとコミュニケーション取って隅から隅まで気にかけて新しく入ってきた人がいれば自ら話しかけに行ったり、食事会をしたりと座長としてかなり気を使っている様子がうかがえました。大河ドラマは長丁場だし関わる人の数もすごく多いし主演の負担って半端ないんだなと改めて感じました。

松ケンが撮影で1番大変だったのは鎧のシーン。鎧のシーンは1日で撮りきるために1日中着てるんだけど、重くて重くて。小牧長久手の戦いでは正信が着ていたのは布製のものでそれはいつでも逃げれるようにしていたからとのこと。さっさと脱ぎ捨て、武士の証である月代は帽子で隠してしまえば散歩に来ただけに見えるから何食わぬ顔で逃げられる、それが正信という人なんですね。撮影が進行するにしたがって正信も鎧を着るようになるが、それは家康が天下を取れるかもしれないという確信を深めていったからなのではと。戦での鎧が正信の心中を表現してる形になっているそうです。

ちなみに帽子は上の方が赤くなっていてそれは鶏冠を表していて松ケンが小道具さんとやり取りをして制作してもらったそうです。磯Pはそのことをトークショーで初めて知ったそう。

伊賀越えでの殿との再会は正信としては殿を試していたと。殿は時を経てリスク管理ができるようになっていた、それが時間がたったということでもあるわけで。松ケンは松潤の演じ分けのグラデーションを感じたそうです。長い年月を演じるドラマ、間いきなり5年とか時間が飛ぶので老いの描写は慎重にしているそうです。

カットされてるかもだけど、正信は隙あらば殿の私物を盗んでるそうです。それを念頭に入れて見たら確かに正信は胸元に本を入れてましたね。隙あらば盗んでるわ。でもってよく握り飯を食べてるが握り飯もまた、税金でできており、お金を使わない生活をするためなのではと。そういう風に演じてるのが知れたのはよかったなあと思いました。

トークショー前には本證寺へ参拝に行ったそうでその時の写真も紹介されていました。ちなみにですが、松ケンは松潤のことを「松潤さん」と呼んでました。

最後に安城市長も交えて客席をバックに壇上の4人と記念撮影をして終わり。とっても貴重なお話を色々聞けて嬉しかったなあ。

私は大河ドラマデビューが平清盛だったので松ケンと磯Pのトークショーに行けて本当によかったなと思います。私の大河ドラマの原点だもん。磯Pは制作統括としてどのように作り上げてるのかと思ったら結構役者とも相談しながら作り上げてることに驚きました。本能寺の変については早い段階で岡田くんに相談してたってねえ。出来上がった台本を元に現場で云々ではなく、そのもっと前からですよね?役者のこと信頼してるしキャスト・スタッフ含めてチームとしてみんなでひとつのものを作り上げるという意識なんだろうなと思います。演じる人たちがどういう風に考えているのかも込みでドラマに落とし込んでいく形なんですねえ。現場ごとにやり方は違うんだろうけど、こういう形もあることがわかったのはエンタメを楽しむ者として興味深いことでした。何かあれば、やれ脚本家が悪い、演者が悪いと叩かれたりするけれど誰か1人が責任を負わされるべきではなく、誰かをスケープゴートにして叩くのはやっぱり違うんでしょうね。話を聞く限り、色んな意見が言えたり何かあればスタッフキャスト共に相談しあったりとよい現場なのかなあと感じました。残り放送回数も減ってきたけれど、よいドラマだったと思えるような終わり方になっているといいなと思います。楽しいお話をありがとうございました。

手作り信仰

義母はとにかく手作りのものを食べさせたい人である。昨日も夫が義実家行って持ち帰ってきている。手作りのお菓子を渡されることもあるが反面、市販のものはお土産以外はあまりもらったことがない。手作り is 最高なのである。実際に「孫ちゃんに食べさせたくって」と言われたこともある。

一方の私は手作り品を持っていったことはない。私の手作りなんかより安心安定のお店の味のが絶対いいに決まってるやろとか私のイチオシのお店のものをご紹介的な感じで結局、手作り品を持っていかない。

だからなんだと言われたらそれまでなのだがそういう取り立てて言うまでもない価値観の差ってあるよねえという話である。こういうとりとめのない話を書くのもまた、ブログであるのだ。

居場所

https://fedibird.com/@choko_ko

https://bsky.app/profile/choko.bsky.social

https://twitter.com/choko_ko?t=mKZAd5WRrsmDFHqCgLCU-A&s=09

https://taittsuu.com/users/choko_ko

https://instagram.com/choko_ko?igshid=MzNlNGNkZWQ4Mg==

とりま私はここにいるよー!の報告です。イーロンのバーカ!私たちのTwitterを返せー!Twitterしっちゃかめっちゃかだけどどうなるんでしょうね。どこへ行こうとも長い付き合いのフォロワーさんたちと今までみたいに過ごせる場所があればよいなと願っております。

Twitterがこの先どうなるかはわからないけど、また次の場所でもお会いしましょうね!約束だよ!

 

自己決定権とコミュニケーションの物語としての「おとなりに銀河」

NHK夜ドラで放送されていたおとなりに銀河が先日最終回を迎えた。漫画家である久我一郎の元にアシスタントとしてやってきた五色しおりは流れ星の民の姫だという。ひょんなことから彼女と婚姻契約を結ぶことになってしまった久我。五色がエキセントリックな感じなだけに物語の導入部ではとんでもSFなのかと思ったがところがどっこい、自分はどう生きたいのかであったり、他者とのコミュニケーションについて描く物語であった。

五色は流れ星の民の姫として生きる運命の人間である。彼女は島の民のために生きることを生まれつき決められていた。漫画に出会い外の世界に出て世界の広さを知り、そこから彼女は自分の生き方を自ら決めていく。久我とは当初は婚姻契約により繋がっていたのだが2人が恋におちたことによって婚姻契約を解除して改めて恋人として付き合うことを選ぶ。婚姻契約を結んだままであれば2人はずっと一緒にいることができるしお互いの心を縛ることもできる。しかし彼女たちはそれを望まなかった。

五色は一時的にではなく、島を出る決意をする。それは流れ星の民の姫として生きることをやめるということだ。島の人間は五色に島へ戻ることを願う。しかし彼女は島に戻った上で新たな道を行くことを決めるのだ。自分の生き方は自分で決める。そこに貫かれているのは自己決定の大切さである。自分で選ぶということはそこには責任もついて回る。それも引き受けた上で彼女は自分の道を行くことを自ら決めたのだ。

五色は人の心がわからないという。だから彼女は言葉にして伝えるのだ。「久我さんのうなじに触れてもいいですか」と。自分の触れたいという気持ち、しかし相手は嫌かもしれないという気持ち。それらを天秤にかけ彼女は自分の欲望を伝えた上で久我に許可を求めるのだ。そこにあるのは相手への尊重である。

それ以外でも彼女は度々口にするのだ。「私は人の気持ちがわからないので」と断って様々なことを言葉によるコミュニケーションで丁寧に紡いでいく。流れ星の民の姫のままでいれば、島民とのコミュニケーションは口にせずとも心の内で伝えようとすればよかった。しかし彼女は外の世界に出たいと願い、その世界とは違う生き方を選択した。

自己決定権とコミュニケーションの物語ってすごく今日的なテーマだなあと思うのだ。私が私であること、そのためにどう生きるか。他者との関わりの中でどうコミュニケーションしていくのか。作り方によってはもっとギスギスしたものになったかもしれないが優しい物語であった。優しい中にも芯がしっかりあって私は好きだなあと思う。今後の夜ドラにも期待したい。

舞いあがれ

カムカム、ちむと最終回迎えて次のが始まる前に感想書いてるので今回も最終回を終えての感想です。

終わってみれば最終回の空飛ぶクルマで舞とばんばが五島の空を舞い上がるシーンがまず念頭にあり、そこから色々考えて作っていったんだなというのがわかる。ああ、だからそのためになにわバードマン編があり航空学校編があったのだなと。

ふんわりした福原遥ちゃんが演じてたから幾分薄まったとこもあるものの、舞は我が強いし根性の人だしこうと決めたらそこに向かって一直線に突っ走ってく人だった。帰国できずにいる貴司との電話で思いつくことが空飛ぶクルマのこととかさーいやーさすが舞だわと思ったもん。それでこそ岩倉舞だよ。えええーっ?そっちなの?とか思ったりもしたが岩倉舞という人のキャラ設定としてはブレがなかったよね。

私は子供時代と航空学校編が好きでした。物語の入り口としての子供時代、学園ものはやっぱり楽しいなの航空学校編。キャラでは悠人と久留美が好きだったので2人が幸せになれてよかったなあ。まさか終盤まで貴司の葛藤が描かれるとは思ってなかったが悩める赤礎くんは素晴らしいからそりゃそういうの入れたくなっちゃうよねえみたいな気持ちで見てた。

舞がずっと父の娘だったのは、空飛ぶクルマが乗せた色んな人の思いの中に浩太も入ってたから。だから舞は父の娘であり亡き父の叶えられなかった夢を実現目指し突っ走っていく娘だった。なるほどねと納得しつつも私は舞がずっと父の娘であり続けたのが居心地悪かった。舞自身はそれこそが自分の夢であり、なすべきことであると信じて走り続けたわけだがどうにも私は微妙な気持ちにしかならなかった。浩太が倒れたことによってパイロットを諦めてIWAKURAで働くことにした舞。そこで優先されたのは父の娘であることだった。広い世界へと旅立つことではなく、生まれ育った馴染みのあるコミュニティで生きてくことを選んだのだ。私はこの航空機のパイロットを諦める件って舞が外界へと羽ばたくか閉じたコミュニティで生きるかの大きな分かれ目だったと思ってる。

舞いあがれの世界は閉じたコミュニティで完結しててそこがちょっとモヤモヤしちゃう。せめて結婚か親友か仕事か何一つくらいは違うとこでもよかったのでは?舞だけでなく、久留美と悠人が結婚したり山田も社内結婚したりとみんな顔見知りの中で完結してる。

舞と同じく父の娘だった久留美。この物語は父の娘として父と伴走し、支え続ける娘の物語だった。決して父を否定しない、父に寄り添い続ける娘の物語。だから浩太の夢は舞の夢になるし久留美は佳晴を捨てることはしなかった。ここら辺、私はめちゃくちゃ居心地悪かった。そろそろ朝ドラは親を捨て決別する話もやったらいいのになと本筋とは関係ないとこで望んでしまう。ヒロインにその役割を課すのが難しければ他のキャラでもいい。親を許したり和解したりせず、生きてく人がいたっていいじゃない。

どうしても気になったのがめぐみは舞がパイロットを諦めたことをどう思ってたのかである。舞の夢を変えさせたことを悔やんでるのか、側にいて一緒にいてくれることを嬉しく思ってたのか。そこがよくわからなくて。ここら辺は朝ドラ週5体制になり尺が足りなくてめぐみを深掘りすることができなかったからかなとも思うが、1シーンとかでいいから何か触れて欲しかった。台詞ひとつあるだけでもよかったんだ。

尺の都合と言えば空飛ぶクルマ開発をもっとじっくり見たかったなーと。技術的なことだけでなく、運用面をどうクリアするかがとても大切であり、舞はそれこそしゃかりきに頑張ったと思うんだよね。だってそういう人だもん。張りきりガール岩倉舞の本領発揮じゃないですか。でもってその話ってめっちゃ面白そうじゃないですか?あーもったいないーもったいないよー。まあ、未来の話なので色々難しくてあえてふんわりさせたのかなとも思うけど。

ラジオ英会話

コロナ禍の最中の2020年9月、重い腰を上げて宅トレを始めたのが習慣化されてきたので何か新しいことを始めたいと思い、以前から気になっていたラジオ英会話を2022年4月から始めることにした。毎年春になるとNHKラジオ講座Twitterで話題になるのと、フォロワーさんでラジオ英会話のリスナーがいるのがきっかけだ。

私もかつて、NHKラジオ講座を聞いてきたことがある。インターネット何それおいしいの時代だったのでリアタイで聞かねばならなかった。それを思うとリアタイに拘らず、自分の生活に合わせて好きな時間に聞くことが可能になったのはとてもありがたいことだなあと思う。こういう柔軟性は悪くない。

改めて英語を始めてみて思うのが語学って面白いんだなということ。やらなきゃいけないからと機械的に覚えてた学生時代と違い、学び直しをしてみると言葉の持つ豊かなイメージに驚かされる。なるほど、この言葉にはこんなイメージがあるからああいった表現につながるんだなあとか。面白いね。その面白さに学生時代の私は気づかぬまま、終わってしまった。

何か目的があってやってるわけではないので悠長なものではあるが母国語以外の言語を学ぶことは自分の中の異文化への思いも一緒に育てていけるような気もしている。年も年なので中々思うようには学習は進まないが世界と私を繋ぐ細い線を切らさぬようにゆるゆるとでいいから続けていけたらいいなと思う。

経済の外側に追いやられたもの

 

Twitterで流れてきたのを見て手に取ってみたのだが思ってた以上に私にフィットする本だった。これは世界の見方を変える本だと思う。著者は第一子出産後は会社員として働いていたが第二子出産を機に専業主婦となり、今は作家業をしている韓国の女性だ。彼女が読んだ15冊の本を元に経済学的な側面から無償労働について読み解いていく。

女性たちが担ってきたケア労働は経済学ではカウントされず、透明化されている。家の中を整え、食事を用意し、子供たちを育てる人がいるから労働の世界へと没入していけるのにそれらは何も経済的な価値を産み出すものとして算出されていない。仮にこれらを外注した場合、いくらかかるのかは色んな方法で計算されてきたがあくまで計算上の話であり実際に賃金が支払われてるわけではない。

韓国は日本以上に家父長制が根強く社会を覆っている。著者は退職した際に「家で遊んでいる」と言われたという。しかし本当に遊んで暮らしてるわけではない。家の中を切り盛りし、育ち盛りの子供たちの育児に邁進する日々だ。しかれども賃金が発生する労働をしていないだけで「家で遊んでいる」と言われてしまう。あまりに理不尽だ。

日本でも似たようなことはある。主婦は三食昼寝つきというやつだ。しかし、やっぱり実態とは違うのだ。三食は勝手に出てくるわけではなく主婦が自分で用意するものだし食べた後の片付けもまた、主婦の仕事なのである。遊んでて三食上げ膳据え膳でのんびりしながら昼寝してるわけじゃない。

毎月きちんと収入をもたらす夫とそうでない私とのあいだに生じた微妙な圧力や、私の支出行為に不満そうな顔をされて悔しくて夜も眠れず、「ケチくそ!明日から自分出稼ぎにでてやる!」とこぶしを握り締めた瞬間の数々が思い出された。そうだった。自分名義の銀行口座に一定額を稼いでくるのは夫であり、経済的な決定はすべて夫が下した。うちの夫は家事もよく分担し、家の中のことを受け持ち私を尊重してくれる部類の人だけれども、そうだった。生活費をもらって暮らしながら、いつもと違う特別な支出が生じたときに、言い訳をするように使いみちを説明するのはどれだけ屈辱的だったか。どんなに緊張したか。深刻に認識していなかっただけで、確かにそういうものがあった。上司から決裁をもらうような感じ。自分の安全が誰かの意思にかかっている感じ。

この感じがわからないわけがない。著者の夫は理解がある方だというがそれでも経済力を失ったら対等ではいられない悔しさがにじむのだ。夫は著者の支えがあって労働の世界へと邁進できるというのに。そういう意味では夫婦は対等であってしかるべきなのに。

私たちが経済学と呼ぶ学問は、お金に換算できる要因しか正式な構成要素として認めない。朝4時に起きて井戸に水を汲みに行き、12人家族の朝食を準備する発展途上国の10代の少女の労働は、国民総生産の一部としてカウントされない。少女は一日中働いて家族の衣食住の面倒を見るが、お金に換算されないため、少女の労働は公式な「仕事」とみなされない。

経済の外側に追いやられ、経済指標にはカウントされない無償労働が経済を支えている。ここにきて果たして労働とは何なのかという問いにぶち当たる。経済学という学問は男性を基準とした学問なのである。健康で労働にまい進することができる男性のための学問。家事や育児や介護などといった無償労働は透明化されてしまう。

著者は家事と育児を男女で均等に再配分をしなければならないという。それが21世紀の社会の在り方になるのだろうしそうならなければならないと思う。社会が変わる過渡期なのだろう。そう信じたい。