おじさんは令和をどう生きるか

2024年冬ドラマは昭和の価値観の中年男性を主人公にしたドラマが2つ放送された。1つは東海テレビ制作土曜深夜の原田泰造主演『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか』、もう1つはTBS金曜22時の阿部サダヲ主演『不適切にもほどがある』だ。同じ設定の主人公だがドラマは全然違ったものになっていた。

おっパンの誠はアップデートが必要だと学び、失敗を繰り返しながらも少しずつ変わっていく。変わるのは誠だけではない。誠の変化は周りにも波及していく。不登校で部屋から出てこなかった息子翔と家族そろって食卓を囲むことができたり、翔の高校の同級生たちにも変化が出てくる。アップデートのバタフライ効果である。初回ではゲイフォビアだった誠が最終回ではゲイカップルである大地と円の仲人として大地の父親を説得するために奮闘する。初回の誠からは考えられない姿だ。

誠は何度も失敗を重ね、ここに辿り着く。アップデートしてLGBTQにも理解があると自信を滲ませた結果、アウティングをして円を激怒させる。誠はアウティングそのものを知らなかった。また、翔が高校で仲のいい子が男女共にできたと知り、男女どちらを好きになろうが翔の恋を応援するといった趣旨のことを言って翔を怒らせる。何故なら翔が学校から足が遠ざかったのはそういった何でもかんでも恋愛に結びつける空気感に辟易していたからだ。好意を全て性愛に回収して然りとは限らない。恋愛=いいものであり誰もがつがうものであると思い込んでいた誠はそれが翔を傷つけることになるなんて想像だにできなかった。これは妻である美香も同じで翔は両親から傷つけられた形となる。

物語は様々な事柄を扱いながらも目線はあくまで相手に寄り添い尊重するものであった。かわいいものが好きな翔はかわいいもので着飾りながらメイクの道へ進むことを願い、娘の萌はBL同人誌を作り続けることにし、美香は推し活を楽しむことを諦めないことにした。好きをそのまま尊重する。そのままでいいと物語はいい、アップデートは続くと締めくくられる。初回の誠の顔と最終回の誠の顔は全然違っていたのが印象的だった。

ふてほどは昭和から令和にタイムスリップしてきた中学校教師だ。歯に衣着せぬ物言いで「おい、このブス!」「ちょめちょめしちゃうのか?」等と思ったことをすぐに何でも口にしちゃうタイプの人間だ。こちらもまた、色々なものを扱ったが残念ながら雑だった以外の感想がない。まだまだ日本では認知度が低いインティマシーコーディネーターをああいった形で茶化すいじりをするには早いと思うし間違った認識が広まってしまう可能性もある。サカエをフェミニスト社会学者という設定にしておきながらゲイに対する認識があまりに雑であった。未来の夫のことなのでサカエも思わぬ言動をとってしまったにしてもちょっとひどい。これならばサカエの設定を変えて普通に令和からやってきた中年女性にした方がよかったのではないかと思う。

最終回で「寛容になろう」と歌うのだがではそれはどの立場の人が誰に向かって言っているのだろうか。不寛容による軋轢は近年の問題ではある。しかし、だからといって寛容という言葉を持ってくるのがよいのかといえばなかなか難しいところもある。足を踏まれている人が「痛いからその足どけてください」というのに対して「まあまあ、大目に見てよ」っていうのは違うと思うもの。大事なのは寄り添う気持ちや尊重であったり、相手も自分と同じ人間であると認識することであったり、対話なのではないだろうか。

はじめに|TBSテレビ 金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』

思春期に『夕やけニャンニャン』と『毎度おさわがせします』と『ビートたけしオールナイトニッポン』で倫理観を設定され、不適切に不適切を塗り重ねて生きてきた世代にとって、日々アップデートを強いられる令和はなかなか生きづらい。「昔は良かった」なんて口が裂けても言いたくない。昭和もそこそこ生きづらかったし、戻りたいとは思わないけど、あの頃の価値観を「古い」の一言で全否定されるのは癪なんです。
だって楽しいこともあったし、大人が自由で元気だったし、若者は携帯電話を使わずに友達と待ち合わせできてたし、カセットテープのレーベルを自己流でレタリングするのに命かけてたし。
そんな瑞々しく甘酸っぱい記憶を無かったことにはしたくないし、「知らねーし」の一言で片付けてほしくない。だからこんなドラマを考えました。
市川森一先生がご存命だったら、こんなタイトルを付けたんじゃないでしょうか。
『正しいのはお前だけじゃない』
自分と違う価値観を認めてこその多様性。
第1話を読んだ関係者から「スカッとした」「痛快です」「溜飲が下がった」などの感想を頂きましたので、おそらくそんな肌触りのドラマになると思います。
仲里依紗さん、磯村勇斗くん、そして吉田羊さんが、持ち前のコメディセンスで多少の不適切は笑いに転化してくれそう。
楽しみです!
宮藤でした。

終わった今、改めてクドカンのコメントを読み返してみたが始まる前の嫌な予感がそのまま覆されることがなかったのは自然のことなのかもしれないなあと苦い思いが拭えない。私はずっとクドカンの描く物語が好きだった。それこそ四半世紀ずっと好きだった。だからこそ、辛い。他の脚本家だったらきっと1話見てそのまま脱落していただろう。でもクドカンならばきっとどこかでひっくり返してくれるはず、そう信じて見続けた。

長年コンビを組んできた磯山Pも私は信頼していたのでやっぱり残念な気持ちは拭えない。もうちょいどうにかできなかったのかなあって。タイムスリップと親子の愛情に絞った方のがクドカンらしさを上手に生かせたのではと思ってしまう。5話はよかったもの。私はこういうクドカンが好きだった。これができる脚本家だから大好きなんだよ。

最後に『脚本家坂元裕二』から坂元裕二のインタを引用したい。業界の中にこういう思いでいてくれるベテランがいることに救われる。ポリコレもコンプラも世の中を窮屈にさせるために生まれたものではないんだよ。

『カルテット』で意識していたことがありました。ベテランの芸能人の方たちが、「最近はコンプライアンスとか苦情が多くて、面白いものがつくれない」ってよくおっしゃるじゃないですか。「女性をブスって言ってもいいじゃないか。セクハラもコミュニケーションだ。差別も言論の自由だ」っていうのを、僕は疑問に思ってたから、それを全部クリアしても面白いものがつくれると思いますけどね、ということをやってみたかったんですよね。すべての人格に配慮して、旧来の土壌を廃した上で、面白いものを作ってみせたいって。料理を女性がつくるという固定概念を外したのも、全部意図しています。「ポリコレでテレビがつまらなくなったんじゃないよ」ってことは言ってみたかったし、むしろそれを守ったことで新しい場所に行けるという気がしたから、「できるんじゃない?」って思いましたね。それで世の中が変わるとは思わないけど、ほっとしてくれる人がいたら嬉しいですね。