八日目の蝉

こないだ金曜ロードショーでやってたので見ました。どうも私はドラマ版に納得がいかなくてぶーたれてたんだけども映画見たら変わるかなーと思って見たのでした。ドラマは喜和子の逃亡劇が中心で希和子の物語だったけど、映画は恵理奈がなくした過去を取り戻して再生するという恵理奈の物語になっていたので雰囲気は違うなあと思いました。私はこっちのがいいんじゃないのかなーと感じます。
だけども違和感はやっぱり拭えなくて。それはエンジェルさんのとこで育てられ男性恐怖症になってしまった千草がいった「普通に育てて欲しかった」というセリフに尽きるからです。子供には選択権なんてありません。与えられた環境が普通かいびつかなんてそれ以外の世界を知らなければわからないことです。だからこそ、希和子の罪は極めて重いと思うのです。人の人生を狂わせる権利なんて誰にもないんだもの。原作では恵理奈の家はかなりひどい状況だという描写があるそうだけど*1、だからといって希和子がやったことが正当化されるはずもないと思います。というか、それぐらいのアドバンテージを与えないとこの物語を母性の物語として成立させるのは難しかったからそういう設定になったのかなあというふうにも感じます。あとは恵理奈の再生の物語になっているのも希和子を否定させないためなんだろうなあと。これで恵理奈が自分が愛させていた事を知って前を向けるようになったからいいものの、そうじゃなかったらこの話成立しないしね。
母性ってすっごく難しいものだと思うんです。エゴイスティックな面も大きいものだし。だから、「母性は素晴らしい」とか「あふれる母性が止まらない」とかって言われちゃうとちょっともにょもにょしてしまうという。それは与える側だけの話じゃなく、与えられる側とセットにして語られるべきだと思うから。与えられる側にとって不幸な母性はそんなの母性じゃないよ。エゴだよ。
あと、本当に男置いてけぼりな話ですよね。まあ恵理奈の父にしろ恵理奈の不倫相手にしろクソな男しか出てこないわけなんだけど。女が母になるため、はらむのには必要だけど産みおとしてしまえば手に入れてしまえば男なんて必要ない話なんて男性から見たらどう映るんでしょうね。

*1:原作は未読です。