バリアフリーって何だろう

乙武さんが銀座のお店で入店拒否にあったという話からちょっとバリアフリーという事について考えたりしてました。私は娘を産んでベビーカーを使うようになり車椅子の大変さというのがやっと実感としてわかるようになりました。散歩してて小さな段差にけつまずいてこんな段差すらベビーカーにとっては見過ごせないことなんだなあとか、エスカレーターを探して遠回りする労力って大変だなあとか。でもベビーカーは子供が大きくなれば必要なくなります。一方の車椅子はそう簡単にはいきません。生活の必需品です。そういった人たちはバリアフリー問題というのは簡単に見過ごすことができる問題ではありません。
バリアフリーについて考えるとき、大きく2つに分けて考えることができます。ひとつはハードの面、もうひとつはソフトの面。2つを天秤にかけた場合、より大事なのはソフトの面ではないかと私は考えます。何故ならば、ハードが整備されてなくてもそれを手助けしてくれる人がいれば問題はクリアできるからです。もちろん、ハードはどんどん整備していくべきでしょう。でも、ハードさえ充実させたらソフトの面はほっといていいのかといったらそんなことはないです。
バリアフリーな社会はそれが必要な人たちにとって過ごしやすい社会であるだけではないと思います。社会的弱者にとって優しいという事はそうではない人たちにとっても過ごしやすいに決まっています。優しさは他人のためにあるんじゃないんです。情けは人のためならずってことです。
今の社会は健康でバリバリ働ける人たちを標準にした社会なのだと思います。でも、みんながみんなそうではありません。色んな人がいます。それに、今は社会的にもっとも適合した人でもいつまでもそうであるとは限りません。五体満足な人だって突然の事故や病気で今まで当たり前にできていたことができなくなる可能性は0ではないのです。「普通」の生活からの撤退を余儀なくされる可能性は誰にだってあります。加齢によってままならないことだって出てくるでしょう。そうなった時、社会的弱者が過ごしやすいように設計された社会はすごくありがたく感じることでしょう。いつまでも昨日と同じ今日、今日と同じ明日が続くとは限らない。
バリアフリーって心の壁なのかなあとか思ったりします。社会的弱者を締め出して社会から見えないようにしてしまうのが果たして正しいことなのか。見えなければいないのと一緒だから考えなくてもいいのか気にしなくてもいいのか。社会的弱者は「どうもすいません、いつも」と縮こまって申し訳なさそうにしてなければいけないのか。誰にも優しくありたいものですな、自戒を込めて。