超高齢化社会を生きる

母方の祖父は私が中学生の時に食道がんで亡くなっている。70才だった。祖母は祖父亡き後も生き続け、91才で亡くなってるので随分早かったように感じてしまう。

先日のことである。「おじいちゃん早かったよね。もっと生きれたのに」と言った私に対して母は「長く生きたら生きたで介護で大変だったかもしれない」と返したのだ。母は40代で父を亡くしたわけだが父親の年齢を越えた今、長生きすることのリスクについて想いを馳せている。

とても意外に感じたが母には母なりの思いもあるのだろう。

祖父が異変に気づいたのは夏。しかし病院嫌いの祖父はずっと我慢をしたまま冬まで放置していた。我慢が利かず意を決して受診した時にはもう、余命宣告される程だった。「胃潰瘍の手術」ということで手術したものの*1、根治できるものではなかった。しかし祖父は治ったと思い、退院後に張り切って冷蔵庫や洗濯機等の大型家電の買い替えを行い、3月には三女一家が住む長野へと祖母と旅行に行く。これが人生最後の旅になるとは知らずに。

その後、容態は悪化し起き上がることも叶わなくなり祖母と母とおば*2の3人体制での介護が始まる。おばは3人の子持ちなのだが小学生の子供2人を長野に残し、当時2才だった末っ子だけを連れ、泊まり込みで介護にあたったのだ。従弟は祖父から呼ばれるとその口元に氷を持っていったりとそれは甲斐甲斐しく祖父の世話をしていた。食べられるものが少しずつ減っていき、うどんが喉を通らなくなりそうめんすらも飲み込むことができなくなり、その生活は僅か2ヶ月もしないうちに終わりを向かえた。祖父が亡くなったのだ。私と弟は職員室に呼び出され、連絡を受けたのを覚えている。

まだ2才の子供の面倒を見ながらとはいえ、大人3人で介護をしていたにも関わらず大変であった。この生活が最初から終わりが見えていたものだから耐えられたとは後に振り返った時に折に触れ彼女たちは言う。終わりの見えない介護ではなく、最初から終わりが見えていたからこそ、献身的に介護することができたというのだ。自宅で看取ると決め、最後まで頑張れたのは看取りまでの時間が残りわずかだと最初から知っていたからである。だから腹が括れたのだ。

その後祖母は一人暮らしをすることになる。血圧が高く心臓が悪かった祖母は度々入院していたのだがある時、家で倒れたところを民生委員の方に発見されて救急搬送をされることになった。ここで困った事態になる。80歳を優に超えた祖母はもう一人暮らしが困難であった。3姉妹の誰かが引き取るというのも現実的ではなかった。そこで施設入所の道を探ることになる。キーパーソンは母なのでいくつかピックアップした施設に見学に行くことにした。中には堅牢な作りでまるで監獄のようだと母が感じるような施設もあったという。決めたとこはペンギンと過ごすことができる老健だった。1階でペンギンがつがいで飼育されているのだ。ここなら自分が将来入所してもいいと母が思えた施設だった。大変よくしていただいて入院で施設を離れた際には「施設に帰りたい」と病院で困らせるほどであった。

晩年は認知症も進み、同じ話を繰り返してた頃はまだよかったが看護師に暴言を吐き、手が出ることもあったという。あの穏やかで優しい祖母が?と驚いたが年を重ねるというのはそういうことなんだろうなと思う。自力で車椅子移乗することも叶わないほどの老人とは思えないほどの力で看護師を振り払っていたことに驚きを隠せない。

祖母は病院で静かに亡くなった。しかしそこに至るまで母は幾度となく呼び出されてきたし決断を迫られてきた。祖父の時と違い、身の回りのお世話をする所謂直接的な介護はしていない。しかしだからといってその分楽なのかといえば一概には言えない。ファーストコールになる人はいつ呼び出されるかわからず心をすり減らす。

介護は育児と違い終わりが見えない。赤子は日々できることが増えていき、手が離れていくが介護は逆だ。できることが少しずつ減っていく。超高齢化社会では誰もが当事者になるのだ。他人事ではない。私もあなたも介護に関わることからは免れない。その道はいつか行く道なのだ。

*1:余談だけど弟はヘルニアの手術のため、祖父と時期を合わせて同じ病院に入院していた。母としてもまとめてくれた方が楽だったのだろう。点滴ぶら下げて歩くのが何だが特別感があったらしくあっちこっち歩き回っていた。

*2:母は3姉妹の次女だが祖父母宅に最も近かったのは母だった。車で30分圏内に住んでいたのでね。長女は県内だが隣県近くに住んでおり、三女は長野在住。故にこの後、母がキーパーソンとして呼び出される日々が始まるのであった