経済の外側に追いやられたもの

 

Twitterで流れてきたのを見て手に取ってみたのだが思ってた以上に私にフィットする本だった。これは世界の見方を変える本だと思う。著者は第一子出産後は会社員として働いていたが第二子出産を機に専業主婦となり、今は作家業をしている韓国の女性だ。彼女が読んだ15冊の本を元に経済学的な側面から無償労働について読み解いていく。

女性たちが担ってきたケア労働は経済学ではカウントされず、透明化されている。家の中を整え、食事を用意し、子供たちを育てる人がいるから労働の世界へと没入していけるのにそれらは何も経済的な価値を産み出すものとして算出されていない。仮にこれらを外注した場合、いくらかかるのかは色んな方法で計算されてきたがあくまで計算上の話であり実際に賃金が支払われてるわけではない。

韓国は日本以上に家父長制が根強く社会を覆っている。著者は退職した際に「家で遊んでいる」と言われたという。しかし本当に遊んで暮らしてるわけではない。家の中を切り盛りし、育ち盛りの子供たちの育児に邁進する日々だ。しかれども賃金が発生する労働をしていないだけで「家で遊んでいる」と言われてしまう。あまりに理不尽だ。

日本でも似たようなことはある。主婦は三食昼寝つきというやつだ。しかし、やっぱり実態とは違うのだ。三食は勝手に出てくるわけではなく主婦が自分で用意するものだし食べた後の片付けもまた、主婦の仕事なのである。遊んでて三食上げ膳据え膳でのんびりしながら昼寝してるわけじゃない。

毎月きちんと収入をもたらす夫とそうでない私とのあいだに生じた微妙な圧力や、私の支出行為に不満そうな顔をされて悔しくて夜も眠れず、「ケチくそ!明日から自分出稼ぎにでてやる!」とこぶしを握り締めた瞬間の数々が思い出された。そうだった。自分名義の銀行口座に一定額を稼いでくるのは夫であり、経済的な決定はすべて夫が下した。うちの夫は家事もよく分担し、家の中のことを受け持ち私を尊重してくれる部類の人だけれども、そうだった。生活費をもらって暮らしながら、いつもと違う特別な支出が生じたときに、言い訳をするように使いみちを説明するのはどれだけ屈辱的だったか。どんなに緊張したか。深刻に認識していなかっただけで、確かにそういうものがあった。上司から決裁をもらうような感じ。自分の安全が誰かの意思にかかっている感じ。

この感じがわからないわけがない。著者の夫は理解がある方だというがそれでも経済力を失ったら対等ではいられない悔しさがにじむのだ。夫は著者の支えがあって労働の世界へと邁進できるというのに。そういう意味では夫婦は対等であってしかるべきなのに。

私たちが経済学と呼ぶ学問は、お金に換算できる要因しか正式な構成要素として認めない。朝4時に起きて井戸に水を汲みに行き、12人家族の朝食を準備する発展途上国の10代の少女の労働は、国民総生産の一部としてカウントされない。少女は一日中働いて家族の衣食住の面倒を見るが、お金に換算されないため、少女の労働は公式な「仕事」とみなされない。

経済の外側に追いやられ、経済指標にはカウントされない無償労働が経済を支えている。ここにきて果たして労働とは何なのかという問いにぶち当たる。経済学という学問は男性を基準とした学問なのである。健康で労働にまい進することができる男性のための学問。家事や育児や介護などといった無償労働は透明化されてしまう。

著者は家事と育児を男女で均等に再配分をしなければならないという。それが21世紀の社会の在り方になるのだろうしそうならなければならないと思う。社会が変わる過渡期なのだろう。そう信じたい。